ラズ語文法 小島剛一


はじめに


0. 音韻と表記法

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はじめに


[1] 語域 (ラズ人の住んでいる地域)

[2]  系統 (ラズ語と同系の言語)

[3] 研究小史  

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[1] 語域


ラズ語の主要分布域は、トルコの黒海沿岸地方の東の果てからグルジアの南西の隅にまたがっています。険しい山の鬱蒼たる森が海辺まで生い茂り、ところどころ崖下の海の岩打つ波の音が遠く響き渡るところです。町や港を縫って走る海岸道路から少し内陸に入ると、深く切れ込んだ谷間に散在する村々では、斜面の畑でとうもろこし、隠元豆、赤キャベツ、りんご、西洋梨、すもも、桃、ぶどう、お茶、キウィなどを栽培しています。乳牛飼育が盛んで、どこの農家でも自家製のバター、チーズ、ヨーグルトのたくわえを欠かしません。伝統的に夏の間は海抜2000mを超える高原に集団移住する集落もたくさんあります。


ラズ語の話し手の数は、正確な統計は存在しませんが、ラズ人自身が「25万人ぐらい」と推定するのをよく聞きます。


語域を詳しく言うと、グルジア側はトルコ国境付近の数ヶ村とBatumi市の一部、トルコ側は[西から東へ順に] Rize県のPazar郡、Çamlıhemşin郡、Ardeşen郡、Fındıklı郡、Artvin県のArhavi郡、Hopa郡とBorçka郡です。ただしÇamlıhemşin郡の南部はトルコ語域、Borçka郡の大部分はグルジア語域です。 


オスマンル帝国と帝政ロシアとの戦争(1877-1878) のあとそれまでBatumi地方に住んでいたラズ人の多くがロシアの支配を逃れて移住したためイスタンブールの近くにもラズ語を話す村落が多数あります(Yalova, Karamürsel, Gölcük, İzmit, Sapanca, Akçakoca, Düzceなど)


国境のSarp村は、北半分がグルジア領、南半分がトルコ領と分断されていて、ソ連時代には誰も行き来できませんでした。ある日突然、越えられない国境ができて、そのまま生き別れになった夫婦、恋人、親子、兄弟が数知れません。国境の鉄条網の近くまで双方から後ろ向きに歩み寄り、後ろ向きのまま空を眺めて言葉を交わすのが精一杯だったそうです。「ドイツや朝鮮半島は大民族の住むところだから、キプロスも大きな島だから、分断国家になったことが世界中で話題になった。ラズ人は取るに足りない少数民族だから、サルプはちっぽけな村だから、分断民族のことも、分断村落のことも、トルコ国内でさえ誰も気にかけないし、まして外国の人は何も知らない。目と鼻の先なのに親の死に目どころか墓参りにさえ行けなかったと泣きながら死んでいった人がたくさんいます。トルコでは、少数民族が人間らしく生きるために何らかの権利を主張するとすぐに分離独立主義者と見做されて迫害されるから、何も言えない。ラズ人は、高らかに笑いながら声を忍んで泣く民族なのです」と言ったサルプ村出身のラズ人の言葉が忘れられません。


現在ではラズ人は、イスタンブールやアンカラなどの大都市や西欧諸国にも多数住んでいます。

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[2] 系統 (ラズ語と同系の言語)

ラズ語は、南西カフカース語族の一員です。この語族を構成するほかの言語は、隣接した地域に語域のあるメグレル語、グルジア語、スヴァン語です。


ラズ語諸方言の語彙や構造の組織立った研究はようやく始まったばかりで、他の三言語との厳密な比較研究ができるのはまだまだ先のことです。北西カフカース、北中カフカース、北東カフカースの諸語との同系論も古くから出ていますが、それはあまりにも時期尚早と言わざるを得ません。

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[3] ラズ語研究小史  


[1929]


1929年に当時ソ連領だった黒海沿岸のアブハジア自治共和国のスフーミ市で İskender 3’itaşi (イスケンデル・ツィターシ)という筆名の人物がラズ語を書き表すための文字を考案して発表するまで、ラズ語は文字無し言語でした。3’itaşi という名前はラズ社会に存在しませんから、筆名だということが分かります。


この人物の書き記したラズ語は、不思議なことに、当時も今もトルコ領の、ArtvinArhavi郡の方言です。3’itaşiのラズ語アルファベットは、その後ソ連の言語政策が変わったため、ソ連のラズ人社会に広まることはありませんでした。トルコのラズ人は近年までこのアルファベットの存在さえも知らなかったのです。

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[1967]

  

1967年に著名なフランス人言語学者の故Georges Dumézil が、イスタンブールで知り合ったアルハーヴィ郡出身のラズ人の口述を元に、ラズ民話集をフランスで刊行しました。純粋に学術書として執筆したようで、ラテン文字、ギリシャ文字にアポストロフィなどを交えた独特の転写法を用い、接辞を細かく区切って書いてありますから、これをラズ語の正書法として提案する意思はなか ったのでしょう。トルコのラズ人がこの著作を入手するのは1980年代も末の頃のようです。

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[1984]


1984年には、Fahri Lazoğlu という筆名の人物(*)がドイツで(当時は「西ドイツ」)新たなラズ語アルファベットを考案しました。Lazoğluも、実在しない名前ですから、筆名に違いありません。この時代のトルコでは、国策として「トルコ語以外の言語はトルコには存在しない」ことになっていました(イスタンブールのギリシャ語、アルメニア語、ラディノ語だけは例外でした)。民主主義国家ではとても考えられないことですが、少数民族言語を話し、読み、書き、研究することが「非合法行為」でしたから、実名で発表するのは危険極まりないことだったのです。


(*) ArhaviSidere村出身の故Fahri Kahraman氏であると聞いていますが、残念ながら氏の存命中に確認する機会は得られませんでした。


本稿の著者・小島剛一は、1986年に特別許可を得てラズ語を現地で調査中、ある結婚式の披露宴に招待を受けてラズ民謡をラズ語で歌おうとして官憲の手で妨害され、数日後に国外自主退去を「強く勧告」されるという経験をしました(中公新書『トルコのもう一つの顔』最終章)

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[1991]


トルコでは、少数民族が母言語を「日常生活で話すこと」のみがようやく自由になったのが1991412 のことです。読み書き、教育、放送、放映、出版などが建前だけでも自由になるのは、もっと後です。

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[1993]

 

1993年からトルコ国内でラズ人自身のラズ語による出版活動が始まります。Ogniという雑誌で、Lazoğluアルファベットを使っていますが、トルコ語式ラテン文字では書けないところを手書きで補った痛々しい印刷物です。


時の政府に「分離独立主義者の活動」と見做されてトルコ検察庁に告訴され、出版は停止させられました。

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[1999]


1999年にラズ人自身が初めてのラズ語トルコ語辞典を出版しました。コンピューター使用法教師のİsmail Avcı Bucaklişi 氏と数学教師のHasan Uzunhasanoğlu 氏の共著です。二人とも言語学や文法識は皆無で、本稿の著者に「形容詞と副詞とはどこがどう違うのか」「ラズ語には受動態はないのか」「完了と過去とは同じものではないのか」といった質問を何度となく繰り返したほどです。この辞典の随所に顔を出す両氏の語源説の99%が民間語源の見本なのも致し方のないことでしょう。トルコ語の綴りの間違いや意味の取り違えも目立ちます。Lazoğluアルファベットを使っていますが、XHのすぐ後、QK’の隣というLazoğlu独自の文字配列を尊重しようとして不成功に終わり、見出し語の誤配列が随所にあります。


なお、この「辞典」は、現実には存在しない幽霊単語を掲載しているため、ラズ語資料としての価値はありません。

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[2002]


200282の法改正で、トルコ国内の少数民族語を、読み書きを含めて、教え・習うことを許可することになりました。しかし許可を得るためには煩瑣極まりない手続きを必要とし、少数民族言語の講座開設に成功した例の報道があったのは、やっと20044月末になってからです。


現在のところ、少数民族語の中でももっとも話者数の多いクルマンチュ語(クルド語)のみが講座開設に漕ぎつけたようです。ラズ語教育は果たしていつの日か実現するのでしょうか。

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[20034]


ラズ人は、豊かな口承文学に加えて、独特の旋法、リズム、和声などのある民族音楽を伝えています(「伝統ラズ音楽は多声音楽ではない」という誤った俗説をラズ人自身が口にすることもありますが、器楽には平行四度などの和声があります)。ラズ人の歌手が非合法を百も承知の上で録音したラズ民謡のカセットなどは解禁を待たずにほとんどおおっぴらに出廻っていましたが、ラズ音楽を楽譜に書いた出版物は長い間存在せず、本稿の著者小島剛一が 20034月にイスタンブールで刊行した『ラズ民謡集』が最初にして唯一のものです。子守唄、仕事の歌、死者を悼む歌などいろいろある中で圧倒的に数が多いのは......... 叶わぬ恋の歌です。

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[20037]


20037月に小島剛一İsmail Avcı Bucaklişi が共著で、トルコ語と英語の二言語版ラズ語文法書Lazca gramer / Lazuri Grameri / Laz Grammar』 をイスタンブールで上梓しました。Lazoğluアルファベットを一部改変した表記法を使っています。初めから一足飛びに規範文法を目指すことはせず、まずはラズ語の現状をあるがままに記述しなければなりません。小島剛一が、海辺の町や村から海抜3500mの高原の季節集落まで、ラズ語域の広い範囲で方言と民謡の臨地調査を行う一方、ラズ人の共著者が主に自分の生まれた村で民話を収集するなど手分けして研究を進め、末永く後続の研究者が典拠として使えるような立派な本を作ろうと心がけたのですが、結果は意外にも・・・惨憺たるものになってしまいました。


信じがたいことですが、刊行直前に、小島剛一に無断で、İsmail Avcı Bucaklişi がほぼ全頁にわたって書き換えを行い、前書きをはじめいくつもの重要な記事や表を何のつもりか刊行の五ヶ月も前の下書きと差し替えたり、実在しないラズ語幽霊単語をおびただしく創作したり、果ては英文をトルコ語かラズ語からの逐語訳に改竄するなどの暴挙に出たのです。

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このまま放置することはできません。とりあえずこのWebサイトに「ラズ語文法書の正誤表」を公開しましたが、引き続いて四言語で増補改訂版ラズ語文法』全編を小島剛一 が自分ひとりの責任で新たに書き下ろすことに決めました。


メディアをにぎわすことのない極少数民族の言語に関する著作物は商業出版が成り立ちませんから、Webサイトにすべて公開します。ラズ語は、現状のままでは一、二世代のうちに消滅してしまう惧れさえあるのですが、今のところラズ人の中にまともな文法書が書けるような人はいません。近々に優秀な若いラズ人言語学者が現れる見込みもないのです。

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[20046]


20046月第二週に「トルコの国営ラジオ・テレビ局でチェルケズ語、ボスニア語、クルマンチュ語(クルド諸語の一つ)、ザザ語などでの放送・放映が始まった。今のところ週にわずか三、四時間、ニュースと民謡番組のみが許容されている状態」だという報道がありました。クルド人やザザ人にとっては朗報に違いありませんが、ラズ人はこれを複雑な気持ちで受け止めたようです。というのは・・・制限つきとはいえ報道権を獲得した「地方言語・方言」の中にラズ語はなぜか入っていないのです。

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[20057]


20057月に、ラズ人がラズ語で書いたCD付きの『ラズ民話集』刊行が実現しました。著者はRizeFındıklı郡在住のNurdoğan Demir Abaşişi氏です。おおむねFındıklı郡方言で書いてありますが、「トルコ語起源の単語をラズ語で置き換えるためにPazar郡方言などから単語を借用した」ことを著者は隠しません。「忘れられかけているラズ語の語彙を次の世代に伝えるため」と氏は言いますが・・・借用のために用いた資料『ラズ語トルコ語辞典』の共著者の一人が幽霊単語製造オタクのİsmail Avcı Bucaklişi氏だというのが残念なことです。

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[20097]


2009720日に、トルコ語でラズ語とラズ文化を記述した『ラズ文化』刊行(Ankara, Phoenix Yayınevi)。著者はArhavi Lome 村の出身で Ankara 在住のKâmil Aksoylu 氏です。1993年に始まったラズ語・ラズ文化に関する出版物のうちで最も充実したものと言えます。


この本の一部に(p.40 ~ 49) 小島剛一の寄稿文が掲載してあります。中学生程度の常識があれば理解できるような平易な言葉で、世界の諸言語の中におけるトルコ語の位置についてトルコ国内で流布している(= 歴代のトルコ政府が政治的な判断で流布させた)「学説」には何の根拠もないことを、具体的な理由を簡潔に示して、述べたものです。つい数年前までは発禁・逮捕・投獄を覚悟しなければ発表できなかったこういう文章の合法的な出版の実現を目の当たりにして隔世の感があります。しかし、トルコの真の民主化は、この本に小島剛一の書いたことが常識になって初めて、ようやく第一歩を記すことになります。それがいつのことになるかは、まだ誰にも分かりません。

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0. 音韻表記法

0.1. 母音

0.2. 子音

0.3. 表記法

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0.1. 母音


ラズ語はどの方言もすべて i, e, a, o, u の五母音体系です。u は、唇を円く突き出して発音する[u] (円唇母音) です。[ш](平唇母音)ではありません。 


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0.2. 子音


ラズ語の子音音素の数は方言によって違います。38文字 (うち3文字は二重字) あればすべての方言の子音音素が書き表せます。


ラズ語子音音素表





両唇音

唇歯音

歯茎音

後部歯茎音

硬口蓋軟口蓋音

軟口蓋音

口蓋垂音

声門音

閉鎖音

鼻音

有声または無声

m


n [n]             [ŋ]



破裂音

無声

非放出音

p


t


ky [ki]

k



放出音

p’


t’


ky’ [ki’]

k’



有声

b


d


gy [gi]

g [g]



破擦音

無声

非放出音



3 [ts]

ç [t∫]





放出音



3’ [ts’]

ç’ [t∫’]





有声



z* [dz]

c [d3]





非閉鎖音

摩擦音

無声

非放出音


f

s

ş [∫]



x [χ]

h

放出音







x’ [χ’]


有声


v

z

j [3]



ğ [γ]



接近音

有声

[w]



r

y [j]




側面接近

有声




l






両唇接近音の [w] は、/v/ の異音です。


上の表で小文字の r で表した音は、ふるえ音や弾き音ではありません。舌先が歯茎に向かって持ち上がるだけの「接近音」です。 [「改竄文書」(p. 419) には「弾き音の異音がある」とありますが、まったく観察できません]


ラズ人の大多数がトルコに住んでいて公用語のトルコ語を読み書きするのに慣れているため、ラズ語の表記にはトルコ語式に準拠したラテン文字(ローマ字)を用いるのが普通ですが、トルコ語にない音素 (p’, t’, 3’, ç’, ky’, k’, x’, 3, x など) の表記は今のところラズ人同士で侃々諤々の議論の最中です。


放出音 (声帯を閉じておいて閉鎖音または摩擦音を発音し、その直後に声帯を開くとともに母音の発音に移る子音) の表記にはいくつもの案が出ていますが、国際音声字母 (International Phonetic Alphabet) でも使っているアポストロフィ(’) 付きの文字が、どんな言語のキーボードでも簡単に入力できますから、一番便利です。

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0.3. 表記法   


本稿で使っているラズ語アルファベットは以下の38 文字ですLazoğluのアルファベットと違って、トルコ語フォントの備わったコンピューターがあれば問題なくすべてのラズ語方言が書き表せます。

A, B, C, Ç, Ç’, D, E, F, G, Gy, Ğ, H, İ, J, K, K’, Ky, Ky’, L, M, N, O, P, P’, R, S, Ş, T, T’, U, V, X, X’, Y, Z, Z*, 3, 3’


ラズ人はアクセント表記をしません。アクセント単位は、単一の語の場合もあり、前置詞、後置詞、接続詞などを含む一連の語であることもあります。わずかな例外を除いて、アクセント単位を構成する形態素(意味を担う最小の単位)によって自動的にアクセントの位置が決まるので、ラズ語を母言語としている人にとっては必要ないのでしょう。アクセント法則については個々の品詞や接辞の項をご覧ください。


ラズ語のアクセントは英語やドイツ語、ロシア語、イタリア語のように強くありません。ときに「アクセントの位置のはっきりしない語」もあり、ラズ人同士で長々と議論が始まることもあります。